こんにちは、おっこちゃんです。
今日は、高知にある桂浜水族館のツイッターが話題になっているので、そこから考えたSNSにより発信とかマーケティングの将来について書こうと思います。
お願いします!!!遊びに来て下さい!!!!
お客さんがいなさすぎてこのままでは給料がでません!!
うち、歩合制なんです!!!#桂浜水族館 #桂浜 #ハマスイ #海獣班 #渾身の土下座 pic.twitter.com/2mbL3pyji7— 桂浜水族館 公式 (@katurahama_aq) 2018年5月9日
なんとなく理解した気になっているSNS
ツイッターやフェイスブックなどのSNSの利用者の割合が現在どのくらいなのか数字を把握していませんが、体験的な感覚からいうと、それらのSNSを頻繁に利用する人が思うほど、世間一般の人は利用していないと思います。
これは自分で多少ですが、ブログとかLINEとかで発信していて思うのですが、アカウントを作ったものの、あまり利用しない人が多いという事です。
つまりまだまだ情報源として新聞とかテレビとかが主体となっているし、それらをひっくるめて、世間の出来事に無関心な層もいます。
たとえば、ちょっと政治の話になりますが、昨年の衆議院総選挙で出来たばかりの立憲民主党がツイッターで草の根の応援層を広げましたが、その時に新しくフォロアーになった方のなかにツイッターは初めてで、立憲民主党を応援するためにアカウントを作ったという方が、多数いらっしゃいました。
僕はその時、ツイッターというのは当たり前に誰でもやっていると思っている方がおかしいと気づいたのです。
考えてみると、僕がサラリーマンで営業をしている時に、少しでも活動を楽にするために会社に交渉して会社の営業支店としては初めてのツイッターアカウントを作りました。
しかし、残念ながらそのツイッターアカウントの活躍を見る前に僕は退職してしまいましたが、会社とか周囲の理解・協力を得ることがけっこう難しかった記憶があります。
こんなこともあって、僕は自分がツイッターとかブログとかが大好きなので、それを利用しない人が理解できないし、すごくもったいないことだと思うのですが、僕の中で何かが、「まてよ」と言いました。
SNSとかロボットとか広告でいえばWebが今後の世の中で主流になっていくという考えのどこかに、重大な欠陥があるような気がしたのです。
SNSをやる理由はあっても、やらない理由はないという現実
一度ツイッターなりフェイスブックなりを始めた人にとって、それが自発的なものであれば、記事当行の頻度は個人差があるにしても、あまり辞めることはありません。
それは、ツイッターであれば主に情報の収集と拡散の機能がすぐれているし、フェイスブックであれば、もう少し狭い友達とかグループのようなもので情報共有とか共感とかが得やすいので、これらの便利さに気づけば、容易に手放す必要もなくなるからです。
またフェイスブックやLINEで、Web電話を無料で利用できるというのは、すごく便利な機能ではないでしょうか。
特に海外にいる人と話すのに、一昔前までは料金を気にしながら話していたことを考えると、想像もできなかった進歩です。
逆にツイッターとかフェイスブックをやらない理由は、何かの個人的なこだわりがあるとか、苦手意識があるとか、個人情報の漏洩を極度に恐れているとかぐらいしか考えられません。
そう、あと一つ言えば、面倒くさいというものがあるかもしれません。
スマホも持たないし、設定とかアプリとかわけがわからず、頭もパニックになりそうなので、そのぐらいならやらないと決意する方です。
またこうしたツールは若い人が得意でシニアは無理とか勝手に考えている方が年齢に関係なく存在しますが、それは単なる思い込みなので、残念なことに思います。
だが情報発信の二極化は確実に起こっている
あらゆる時代に共通すると思いますが、こうしたツイッターとかフェイスブックとかがあっても、すべての人が同じように情報を発信したり受けたりするわけではありません。
むしろ、情報を発信する側の人の割合は、常に少ないと僕は感じています。
それは紙とペンがあれば、誰でも小説を書けるけれども、実際に書くのは限られた人だけだという事に近い気がします。
では、情報を発信する人と、もっぱら受け取るだけの人との間に決定的な質的な違いはあるでしょうか。
僕はこれはないと思っています。
ただ、ある種の魚が普段は性別がないのに、繁殖期が来て、一匹がオスになると他のすべてがメスになるような現象に似た、自然現象だと思っているのです。
例えば松尾芭蕉の時代に、芭蕉のような俳諧師になりたいと思った人は多いかもしれませんが、それが出来たのはごく一部の人であったのと同じようなことです。
いや、もっと普通にSNS使ってるでしょという意見への反論
僕がこのような考えを持つようになったのは、主にツイッターの運用経験から来ています。
ある特定のアカウント(政治とか野鳥愛好とか特定のゲームとか)を作ってフォロアーを集めてみるとわかりますが、その分野で毎日何回もツイートする人がいて、その他大勢はちょっと感想を述べたり、いいねしたりリツイートしたりしているだけです。
もちろん多くの中間層は存在しますが、僕はその方々は、いずれどちらかに収束していくように思っています。
つまりツイッターについていえば、その主な機能は情報収集となり、影響を与えられるツイートが出来る人は、ますます限られてくるのではないかと考えています。
そしてその理由はツールは先行しても、発信する能力は全く別だし、そのような教育も受けていないからです。
それが顔が見えないことを良いことに、普段はおとなしい人でも、あたかも欲求不満のはけ口でもあるかのように不躾なツイートをしたりするのではないかと思います。
ツイッターについていえば、140文字を書くことができます。
この140文字ですが、日本語が短い言葉で表現するのに秀でているので、英語圏のツイートよりおよそ1.5倍程度の内容を記すことが出来ると思います。
自分の言いたいことを140文字で表すのには、もってこいのツールなのです。
なので、もし自分が情報を発信して何らかの影響を世界に与えたいと考えるのであれば、まずは毎日ひたすら、日記的でもいいので、できれば140文字めいっぱいのツイートを数多くなさることをお勧めします。
また関係あるかどうかよくわかりませんが、英語圏のツイッターアカウントは、フルネームの本名でアカウントを作っている方がかなりの割合を占めています。
日本では有名人は本名ですが、それ以外の方は思い思いのキャラを設定して、思い思いの名前でアカウントを作っています。
桂浜水族館のツイートに話を戻します
以上が、本日僕が桂浜水族館のツイッターを見て思ったことですが、もしここまでお読みいただけたなら、僕は感謝しなければなりません。
というのは、桂浜水族館のツイッターと何の関係があるのかと言われそうだからです。
このツイートはとても興味をひいてリツイートやいいねも多いので話題となりニュースとなったのですが、僕はこうした奇をてらう記事は、一定の反響を呼ぶでしょうが、いずれは飽きてくるんじゃないかと考えています。
またそれ以上に、YouTubeなどでもそうですが、受け狙いのものを連発する努力がどうにも無駄に思えてなりません。
結局、写真とか映像とか以上に、人が心を動かすのは、言葉だと信じているからなのです。
桂浜水族館のツイートについて言えば、「なんで来て欲しいの?」とか「えっ!歩合制なの?」とか「逆立ちうまいな」とか映像を言葉に置き換えたうえで感動しているのです。
もちろん、面白い記事というのは大事ですが、僕はこれからのSNSの発信は、より言葉を大事にしたものになっていくのではないかと考えているのです。
20180511 by okkochaan